2009年6月18日木曜日

エッセイストの道


一年間程、エッセイ教室に通っていました。

  「エッ、何のため?」

  「見たこと、感じたことを
   サラサラと書けるようになるためですよ。」

ところが「ローマは一日にして成らず」と言うべきか
「隠れた才能?が遠慮している」と言うのか
上達した実感のないまま、昨年6月に退室。

そして、9月からベトナムで次なる人生の活動開始。

生活面では苦手な洗濯も克服
(ただスイッチを押すだけですが)。
年が明けた1月頃には生活にもゆとりが。

何かを始めなくてはと、パソコン・ファイル にある
『エッセイ提出作品』をクリック。


半年振りに書いた作品を読み返すと 、
「ガアーン」、
脳ミソに強烈な衝撃が。

こんなヘタクソな文章を皆の前で恥ずかしげもなく
読めたものと 、唖然としてしまいました
(教室では作品を読み、先生の講評を受けるのです)

しかし、切り替えが早いのか、年齢から来るボケか
”唖然”とした気持ちも数ヶ月で忘却の彼方に。

そんな折、モノを書く事の興味を復活させてくれたのが
仲間からのブログを薦める一通のメールでした。

途端に日常風景が”題材探し”と言うフィルターを通す事で
新鮮に、そして色んな形に変化して見えてくるのです。

  *この変わり身の早さに、再度唖然!

追い討ちをかけるように、エッセイ仲間からの作品が
ホーチミンに 届きました。

それは”励ましエッセイ”でもありました。
エッセイ仲間に、感謝です。

  *その中で「片思い」というテーマの作品がありました。
   書き手は、青春時代のいくつかの”思い”
   の遍歴に触れ、今その相手は「エッセイを書く事」
   になっていると書かれていました。

   私は大いに共鳴。

   しかし、先生の講評は「その箇所、不要」。
   その人はプロになってしまい、アマチュア・エッセイスト
   の心を忘れてしまったのでしょう。残念です。

   ある種のメッセージを発信しているのですから
   いいじゃないですか。

   
   K-chan 
   好きなように、思うように楽しんで書きましょう!
   

=ベトナム・コーヒー・ブレイク=

実は,上段は前置きなのです。

写真の『東海林さだお』の本は息子が送ってくれました。
ユーモア(駄洒落も多いけど)エッセイストの大家です。

このレベルの人は当然に「サラサラ」と書いてると
思ったのですが、それは大きな誤解でした。

ページ139-140を読むと違うのですね。

彼がエッセイを書く時は、

 - 取材メモはしっかりと書く。
 - いい文章を目指す。
 - 出だしは短く一行に。
 - 下書きは、構成を考えずライブ感覚で思うことを書く。
 - 推敲作業。
   濃縮したり、削ったり、入れ替えたりを繰り返す。
 - 数日寝かす。くどいところ、書き足りないところを直す。
 - それを3回繰り返す。

  
大変に参考になり、勇気づけられる本でした。
息子に感謝です。

何故なら、私と彼は同じことをしているからです。

言い方を代えれば、方法論では差がないと言う事です。

    有名な哲学者が言いました。
      「英雄、イロを好む」
      「我、またイロを好む」
      「故に、我は英雄なり」

この論法だと 、私も大家になれるのです。
      
でも、作品には雲泥の差が出るのです。

「どうして? 」   

3 件のコメント:

  1. 今日のブログの文章で充分良いのでは(笑)

    私が言うのも何ですが、話し言葉で良い感じですよ。これからも期待してます。

    ブログにコメント有り難うございました。こんな続くとは思いませんでしたが。

    *プロフィール選択しなければ行けないのがどうも??? なしだと投稿出来ません。

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  2. ブログを勧めてくれたhhさんに感謝です。

    何時まで続けられるかなどは考えずに、楽しんで
    書ければと思っています。(勿論、今すでに
    楽しんでいます)

    毎回、目の前には”誰か”座って相手をしてくれていると思って書いているので、その結果が話し言葉になっていると思います。

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