一年間程、エッセイ教室に通っていました。
「エッ、何のため?」
「見たこと、感じたことを
サラサラと書けるようになるためですよ。」
ところが「ローマは一日にして成らず」と言うべきか
「隠れた才能?が遠慮している」と言うのか
上達した実感のないまま、昨年6月に退室。
そして、9月からベトナムで次なる人生の活動開始。
生活面では苦手な洗濯も克服
(ただスイッチを押すだけですが)。
年が明けた1月頃には生活にもゆとりが。
何かを始めなくてはと、パソコン・ファイル にある
『エッセイ提出作品』をクリック。
半年振りに書いた作品を読み返すと 、
「ガアーン」、
脳ミソに強烈な衝撃が。
こんなヘタクソな文章を皆の前で恥ずかしげもなく
読めたものと 、唖然としてしまいました
(教室では作品を読み、先生の講評を受けるのです)
しかし、切り替えが早いのか、年齢から来るボケか
”唖然”とした気持ちも数ヶ月で忘却の彼方に。
そんな折、モノを書く事の興味を復活させてくれたのが
仲間からのブログを薦める一通のメールでした。
途端に日常風景が”題材探し”と言うフィルターを通す事で
新鮮に、そして色んな形に変化して見えてくるのです。
*この変わり身の早さに、再度唖然!
追い討ちをかけるように、エッセイ仲間からの作品が
ホーチミンに 届きました。
それは”励ましエッセイ”でもありました。
エッセイ仲間に、感謝です。
*その中で「片思い」というテーマの作品がありました。
書き手は、青春時代のいくつかの”思い”
の遍歴に触れ、今その相手は「エッセイを書く事」
になっていると書かれていました。
私は大いに共鳴。
しかし、先生の講評は「その箇所、不要」。
その人はプロになってしまい、アマチュア・エッセイスト
の心を忘れてしまったのでしょう。残念です。
ある種のメッセージを発信しているのですから
いいじゃないですか。
K-chan
好きなように、思うように楽しんで書きましょう!
=ベトナム・コーヒー・ブレイク=
実は,上段は前置きなのです。
写真の『東海林さだお』の本は息子が送ってくれました。
ユーモア(駄洒落も多いけど)エッセイストの大家です。
このレベルの人は当然に「サラサラ」と書いてると
思ったのですが、それは大きな誤解でした。
ページ139-140を読むと違うのですね。
彼がエッセイを書く時は、
- 取材メモはしっかりと書く。
- いい文章を目指す。
- 出だしは短く一行に。
- 下書きは、構成を考えずライブ感覚で思うことを書く。
- 推敲作業。
濃縮したり、削ったり、入れ替えたりを繰り返す。
- 数日寝かす。くどいところ、書き足りないところを直す。
- それを3回繰り返す。
大変に参考になり、勇気づけられる本でした。
息子に感謝です。
何故なら、私と彼は同じことをしているからです。
言い方を代えれば、方法論では差がないと言う事です。
有名な哲学者が言いました。
「英雄、イロを好む」
「我、またイロを好む」
「故に、我は英雄なり」
この論法だと 、私も大家になれるのです。
でも、作品には雲泥の差が出るのです。
「どうして? 」
今日のブログの文章で充分良いのでは(笑)
返信削除私が言うのも何ですが、話し言葉で良い感じですよ。これからも期待してます。
ブログにコメント有り難うございました。こんな続くとは思いませんでしたが。
*プロフィール選択しなければ行けないのがどうも??? なしだと投稿出来ません。
ブログを勧めてくれたhhさんに感謝です。
返信削除何時まで続けられるかなどは考えずに、楽しんで
書ければと思っています。(勿論、今すでに
楽しんでいます)
毎回、目の前には”誰か”座って相手をしてくれていると思って書いているので、その結果が話し言葉になっていると思います。
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